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ソ連文芸クロニクル
本書は、一九八三年二月から九一年三月までの八年間、早稲田大学名誉教授の安井亮平先生が朝日新聞の夕刊に寄稿したコラム「海外文化」を全て集録したものである(ただし「ブブノワさんというひと」のみ公明新聞に寄稿)。
この時期は、穿った見方をするなら、ソ連崩壊のカウントダウンが始まった時代とも言えるが、長く続いた停滞の時代が終わりを告げ、ペレストロイカの新風が吹き抜けた時代でもある。その歴史の渦中で、生き方を手探りで模索するロシアの人々を鮮やかに活写するその筆力と観察力は、文字数の制約を軽々と乗り越えている。それゆえ一読するだけで、時代の息吹きが、今もなお、生き生きと伝わってくるのである。書評という枠組みを越えて、時代を写す鏡としての機能を今も失っていないのは、文学研究に生涯を捧げた筆者のまさに労作業のおかげである。
モスクワとモスクワっ子(上): ―ロシア帝政末期の光と影―
『モスクワとモスクワっ子』は、十九世紀すえから二十世紀はじめにかけてモスクワのルポライターとして鳴らしたウラジーミル・アレクセーエヴィチ・ギリャロフスキー(通称ギリャイおじさん)の代表作の一つである。
ギリャロフスキー(一八五三〜一九三五)の名前は、スラム街とともに思い浮かべられるのが普通である。彼には一般市民が恐れて近づこうともしないスラム街に平気ではいりこんで、そのすさまじい生活をつぶさに観察し、そこに仲間までつくり出す特異な才能があり、彼の書く新聞記事は、いつもモスクワっ子のあいだに大きな反響を呼んだものである。そういう彼のもとにスラム街見学の案内をもとめにくる作家は大勢いたが、なかでも変り種は、モスクワ芸術座が『どん底』の上演に際して、演出家、俳優一同、ギリャロフスキーのあとについてヒトロフカをぞろぞろ見学してまわったことだろう。
かくれ山と虹のなる木
この物語は、初孫が生まれてその喜びのあまり、書き始めました。
限りある命を受け継ぎ、誕生してきてくれた尊い命。負けない、勇気のある子どもになってと願い、大きくなったら読んでほしいなと思いながら、ペンを走らせました。でも途中からその思いが溢れて、止まらなくなってしまいました。創作するときに、こんな気持ちで書き続けたのは初めてのことです。
主人公は兄弟二人にしました。
三年後に、フィクションがノンフィクションになり、二番目の孫に恵まれました。弾むような嬉しさと、感謝と感激でいっぱいでした。二番目が生まれて、真にこの小説が完成したのだとも言えます。
虹には、壮大な宇宙の物語が潜んでいるような気がします。わくわくしてしまいます。
虹が空を駆けていったら、その国は平和になっていくという言い伝えが何処かにあればと、今、願っています。(あとがきより)
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