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ロシア文学読書
感想文 コンクール

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【入賞者一覧】

                       ※最優秀賞は該当者なし。

【優秀賞】2名 

 山下知大さん(中央大学)「決闘」

 牧原勇作さん(創価大学)「谷間」

【入賞】2名 

 手塚智哉さん(札幌大学)「家庭の幸福」

 藤本和茶さん(昭和女子大学)「初恋」

【敢闘賞】3名

 山本城大さん(創価大学)「ネフスキイ大通り」

 内田桜子さん(跡見学園女子大学)「貧しい人たち」

 坂本梓さん(徳島県立脇町高校)「イワンの馬鹿」

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【優秀賞作品1】

「決闘」 

 ロシア語が好きだと言うと、決まって「なんで?」と訊かれる。ロシア語学習者ならきっと共感していただけるだろうが、これは本当に毎度のことだ。失礼を承知で説明すれば、「なんで(進学や就職に役に立たないのにロシア語に興味を持ったの)?」 ということだろう。お金や出世の為じゃなくたって、好きなものは好きなのだ。私のロシア語との邂逅は中学時代に遡る。ふと聴いていた深夜ラジオのロシア民謡特集に耳を奪われた。今思えば、歌はリュドミラ・ズィキナであったと思う。

 「Вот мчится тройка почтовая По Волге-матушке зимой,...(ほら駆けてゆくよ、郵便トロイカが 冬の母なるヴォルガの河辺を…)」 言葉の意味は分からずとも、ロシア民謡の雰囲気やロシア語の響きの美しさに一目惚れ(一耳惚れ?)した。それ以来、ロシア語やロシア文化が好きだ。冬の辛い受験を経て大学に入った後も、当然のようにロシア語を第二外国語として選択した。時勢柄オンラインとなったが、留学もした。趣味はYouTubeに転がっている70年代ソ連の映画の鑑賞やラジオの視聴である。

 そんなロシア語・ロシア文化愛好家の私に、懇意にしてもらってる大学のロシア語の先生から気になる知らせをいただいた。モスクワ芸術座が来日する。生で本場のロシア語の演劇を観てみたいと思った。だが、当日劇場でストーリーが分からなくては勿体無い。そのため、予習として小説を読んだ。なんだこのあまりにドロドロし拗れに拗れた人間関係は。大学生の恋愛でもここまでドロドロしていないじゃないか。実際に劇を見てから、この感情は一層強まった。なぜこんなにも人間くさいのだろうか。渦中の主な登場人物を追い、『決闘』の人間くささに迫る。

 自ら駆け落ちした女性に飽き、逃げ捨てようとするラエーフスキイ。「いや、本当はこうだ、初めっから愛なんかなかったことが、やっと悟れたのさ。……この二年間の生活は欺瞞だったのだ」だの、文明に毒されただのと開き直る。彼は無気力を根底とし、それに矛盾した気力に満ちた雄弁な無責任を身に纏う。コーレンを刺激とした自らの正義に対する内面的な葛藤を常に抱え、感情的な自己改革の末、ついにはコーレンとの決闘を口走るに至る。消極と積極の間で独りよがりの正義が暴走する、人間らしい男である。 若き動物学者コーレンは、ラエーフスキイを異常なまでに軽蔑し、居丈高に講釈を垂れる。自身の考えの押し付けと過激な他者批判で、自身を絶対的な正義に立つ存在だと演出する。ラエーフスキイを社会にとり断然有害な人物だと喝破し、彼を溺死させるのは立派な社会奉仕だとまで言い放つ。殺人が社会奉仕だとは、もはや戦争並みの反道徳加減である。

 そんな癖の強い彼らの面倒を見、一見無私に恩を売り続ける軍医サモイレンコ。社会の一員としての責任を強く自覚し、「夫婦生活は愛じゃなくって忍耐なんだ。愛は永続するものではない。」と言う。一見合理的で責任深いように見えるが、夫婦生活が上手くいかない原因を妻になすりつけているのではないか。世間では常に誇り高き軍医を演じている彼だが、ラエーフスキイの言葉に人格を穿鑿された際、ついに「このおれを侮辱することは何人にも許さん!」と怒りに任せ、内に秘めていた彼の強烈な自己愛を公の面前に解き放ってしまう。 ラエーフスキイと一度は駆け落ちしたナデージュダ。彼にまだ気がありながらもアチミアーノフを家に上げ、キリーリンのしつこい誘いもきっぱりと断れない。そして「罪な女」などと自惚れる。自分事となれば浮気だって一流のロマンスだ。夫婦愛に恵まれなかった悲劇のヒロインとなれる。自己を正当化できる。私は多くの男から求められ、それに応えてやっている魅力的な女性だとの驕りが見え隠れする。現代日本社会でいえば、いわゆる「地雷」だろう。彼女は無意識に周りの男を夢見させ、そして傷つける。

 好青年だがお坊ちゃん思考のアチミアーノフ。彼は青春時代を恋に生きる。しかし、ナデージュダに対しあまりに純粋なのだ。彼女の男癖の悪さや人間関係全体を見通せていない。ドロドロな人間関係を未だ経験していないからだろうか。端的に言えば、あまりに未熟である。

 ナデージュダにしつこく言い寄る警察署長キリーリン。金と地位で愛する彼女を守る、たとえ本人が今理解せずとも、いずれ分かってもらえる日が来る。だから愛を押し付けてもよい。もし俺のありがたい「思いやり」を受け入れぬのなら、「不義」のナデージュダを懲らしめねばならん。そんな考えだろうか。自己本位極まれりだ。 みな自分では相手を思い遣っているつもりでも、客観的には自分勝手さが否めない。実に人間くさい。それぞれの「真実」と「正義」がぶつかり合い、行き詰る。理性で解決はできないのならと、ラエーフスキイとコーレンは感情的な口車から暴力的な決闘に訴えることとなった。しかしどちらも死から逃れる動物的な本能が、理性的な自分の正義の影に見え隠れする。彼らは吹き荒れる嵐の中で苦しむ。他人に自分の「正義」を認めてもらう手前、理性を押し通すしかないのだ。暴力で勝負をつける決闘において、何とも皮肉である。あれこれ理屈をこねつつ、理性と本能の間で苦しむ。実に人間くさい。

 所詮人間というのは、本質的に自己中なのだ。それぞれの人が自分が捉えて心の中に持っている「真実」に基づき、良かれと思い行動する。相手の言動は、都合の良いように解釈されるか、無視される。「真実」はそれぞれの人にあり、地球上に星の数ほどある。だが、どの「真実」も真実ではない。社会一般に通用する法ではない。「真実」は社会に共有された一つの観念の様に見えて、実際は個々人を正当化するありふれた道具でしかないのだ。だから人間は分かり合えない。ただ、私は、自己中心的な言動は悪だと断罪するつもりは全くない。それは人間の本性である。法学部生が言うのも何だが、全てを規定する唯一の行動規範に沿って万人が一ミリの逸脱もなく行動しては、それはロボットと何が違うのだろうか。無数の自己中心的な「正義」が常に触れ合い続け、時に衝突してこそ、良くも悪くも人間は人間らしく生きるのだ。

 最終盤、決闘を乗り越えそれに気づいたコーレンとラネーフスキーが共に紡いだ言葉「誰もまことの真実を知る者はない(никто не знает настоящей правды)」により、彼らを縛りつけていた全ての「真実」が完全に粉砕される。しかし彼らは悲観することはなかった。それどころか、この言葉を始発とした。彼らは、悩みや過失や生の倦怠による「一歩の後退」を終え、止揚された新しい「真実」への熱望と不撓の意志により、「二歩前」へと踏み出したのだ。彼らだけではない。至近の人間関係から国家間紛争に至るまで、無数の矛盾する「正義」に溢れた現代に生きる我々も、チェーホフの手によりラエーフスキイたちの希望に触れ、「二歩前」へと踏み出すことができる。人間はコンピュータではない。自己矛盾や相互矛盾を抱えながらも前へ進むことができるのだ。チェーホフの『決闘』は、単なる決闘物語ではない。真実や正義のあり方について哲学的な問いを読者に投げつけ、「一歩後ろ」に退きがちな我らを「二歩前」へと駆り立てる。

〔審査員寸評〕

〔金沢〕自然な文体で書かれたバランスのよい文章である。言葉に対する知識も豊富で、物語に対する成熟した視点も感じさせ、共感できる。提起された問題についての結論に既視感があるのが、やや物足りない。

〔伊東〕チェーホフの文学は単眼的には捉えられないところがあるが、複数の登場人物を的確に捉え、理解している。論理的で説得的な大人の論を進めている。できれば「真実」論をもう少し先に深めて欲しかった。

〔三浦〕登場人物の性格と特徴を堀り下げて的確に分析。文の運びはリズム感があって心地よい。自己中心的な「正義」、「真実」がぶつかり合う中から人間らしい生き方が見えてくる、という指摘には、十分な説得力を感じた。

〔木村〕あなたのおっしゃる通り、この作品、いかにも人間くさい。尤も、とりつくろったところのない人間くささは、世界中の素晴らしい文学の特徴じゃないかな。別にチェーホフに限らない。「真実」についてのあなたの鋭い考察は、その通りでしょう。「「真実」はそれぞれの人にあり、地球上に星の数ほどある」。80億の人間が住む地球上には80億の「真実」が存在するわけで、そのうちのどの「真実」も「真実」ではない、というあなたの言の通り。よく読みとりました。

〔鈴木〕「真実」と「正義」のぶつかり合いに着目した興味深い一本。ラエーフスキーの最後の台詞を意識した締めの文章は機知に富み見事。冒頭部の自己紹介は割愛し、濃密な内容にふさわしい、より明確な表現を心がけてください。

〔江口〕それぞれの正義のために生きようとする人間像を、登場人物を通して優れた文章力で鮮やかに捉えている。「2歩前」に人間を進めるものについてもう少し掘り下げてほしかった。

〔阿部〕登場人物の分析が秀逸。「実に人間くさい」というリフレインが、彼らへの独特な共感を表すとともに、多様な意味合いを含んでくる。ただ、「真実」の分析は、少し普通か。

【優秀賞作品2】

「谷間」 

 神はいない。いるのはどこまでいっても人のみである。だから人は支えあうことも争うこともやめない。時間は等しく流れているのに、胃袋の中身は全く等しくない。裕福な人間は常に腹を満たし、貧乏人は常に飢えている。しかしみな生きねばならない。前に進まねばならない。絶望の中に救いを見出しながら。

 読み終えた私の胸の中にはどんよりと晴れきらない靄がかかっていた。小さな町の小金持ちの一家とその周りに渦巻く悪意や私欲。悪人ばかりが得をして、健気に生きている人間が不幸になる世界を改めて目前にすると、気持ちが落ち込んでしまう。これはなにも小説の中だけの話ではないのだ。チェーホフの描く人間の醜悪さは、誰しも持つ身に覚えのどこかに触れている。金や地位に囚われた時の人間の、剥き出しになった本性を、私たちは知っている。

 しかし、私はその薄暗い谷間にも、確かに一筋の光を見た。広大な世界で、自分がいかにちっぽけかを知った上でそれでも強かに生きる人びとが、私の目指す生き方を体現する人々があの小さな世界にもいたのだ。松葉杖、リーパとその母親、リーパの出会った名も無き老人とその息子。彼らの言葉は私の心に光を差してくれたのだった。 

 「働いている者、苦しみをこらえている者の方が、いつでも上だよ」自分が人の上に立っていると思う、そう思わねば満たされない憐れな一等商人に対して見事な口答えをした一介の大工コストゥイリの言葉だ。たとえ駒のように扱われたとしても、仕事に誇りを持っている人間からしか出てこない言葉だ。

 働いている者とは、贋金作りや詐欺まがいのものではなく、相応の報酬を貰う健康的な労働に従事している者を指すのであろう。そして、苦しみをこらえている者。これは他人からは決してわからない。自分の苦しみは人にわざわざ教えるようなものではないからだ。しかし、身に余る苦しみを抱えながらも両の足でしっかりと地面に立って生きている人間がいるのだ。

 リーパは確かに、老人やアクシーニヤほど商人には向いていなかったかもしれない。頭もそれほど良かったわけでもないだろう。しかし物語に登場する誰よりも子の親に向いていた。彼女は説明こそできなかったが、自分の子、ニキーフォルが可愛くてしようがないことに気付いていた。愛情を持っていたのだ。そして彼女のその純粋な、裏表のない優しい性格は、どれだけその小さな身に凶悪な不幸が降りかかろうと、何度でも前を向ける理由となっていたのだろう。

 「鳥は羽根を四枚でなくて、二枚つけてもらってるだけだが、これは二枚のはねで飛べるように創られてるからだ」

 生きるために必要なことは、知っている。全てを知らなくたって、半分か四分の一だけ知るように出来ている。愛する我が子を失い、病院からの長すぎる帰り道でリーパが出会った老人の言葉だ。この言葉に物語の全てが詰まっているといっても過言ではない。それほどこの言葉は私の胸に強く残っている。

 老人も、アニーシムも、アクシーニヤも、四枚目の羽根を欲してしまったのだ。金や地位は人に与えられたものだが、元来人の手に負えるものではない。人として生きるためには自分の身の丈以上のものを求めすぎてはいけないのである。その線を一度超えてしまうと、健気に生活を営むことを忘れ、他を蹴落とすことばかり考えるようになり、結果羽根はもがれ地に落ちてしまう。 皮肉なことである。三枚目、四枚目の羽根を求めた人間よりも、二枚の羽根で十分だと知っている人間の方が高く飛ぶ。

 リーパと老人が無数の星の下で交わした会話より、もうひとつ大切にしたい言葉がある。

「人生は長えだ。まだまだええことも、わりいことも、いろいろなことがあらあ。」

 老人は各地を転々とし、ときに飢えたりもし、女房には先立たれ、正直悪いことの方が多いのではと思えるほどだった。しかし老人は死にたいとも思わず、あと二十年は生きるつもりだという。

 私は人の本来持つ強さを老人の言葉の節々から感じた。なぜこの老人はこんなにも強いのだろうか。きっと、悲しみも喜びも絶えない人生を駆け抜けるほかにやることなどないという事実を、彼は知っているからだろう。人間は結局一本道の迷路をずっと迷っているだけなのである。

 矛先を誤った嫉妬心のせいで最愛の我が子を失ったリーパ。彼女のように人生が悲しみの黒に塗りつぶされてしまうことは幾度となくある。そしてその度に、全てを飲み込む漆黒を前になす術もなく立ち尽くしてしまうかもしれない。しかしどれだけ深い黒も時間が経てば乾いてしまう。休息をとれば人はまた前を向く。その上にまた新たな色を乗せていけばよいのである。

 いいことも悪いことも隣にいる。ただわかることは、とかくこの世は広いということだ。自分の二枚の羽根を大切にしなければならないということだ。

 大国ロシアの小さな谷間で、深い悲しみから起き上がった羽根の美しい小鳥が、穏やかでいつの日も変わらない月明かりに照らされ続けることを願う。

〔審査員寸評〕

〔金沢〕詩趣を感じさせる文章で、筆者の感受性が感じられる。作品に丁寧に寄り添っており、作品の背景にチェーホフの人間観を読みとろうとする姿勢も好ましい。無難に綺麗に纏められている点については、評価される一方で、物足りなさも残る。

〔伊東〕感受性豊かな文章。筆者の心のあたたかさが感じられる。『谷間』は作者の声高な主張ではなく大きな慈しみに満ちている作品だと思うが、それを受け止めた名文。

〔三浦〕深く読み込み、咀嚼し、自身の言葉で見事に書き上げている。文章のテンポもよく、気持ちよく読み通せた。リーパに仮託し、自身に引き寄せての結論付けには、特に深く感じ入った。

〔木村〕チェーホフには、『谷間』のような、どうすることもできない厳しい現実を描いた作品が多いかもしれません。悪のきわみの残虐行為が、水彩画か、いやもう、いっそデッサンのように、しごくあっさりと描写される。ですが、また、あなたが感じとってくれたように、そう、この『谷間』のエンディングのように、はっきりとは言わないまでも、得も言われぬ、未来への漠然とした「ほの明るさ」に満ち満ちている作品が多いです。その繊細なほの明るみ、よくぞ掬い取ってくれました。

〔鈴木〕自足と希望に着目し、キーセンテンスの挿入が巧み。最後の一文は美しい。リーパの慈悲心にも言及すれば、なおよかった。もう少し読み手の側に立った文章を心がけることで、全体が精彩に富むものになります。今後もぜひ書き続けてください。

〔江口〕「谷間」の中に見た「一筋の光」がいかなるものかが詩的に鮮やかに浮かび上がるように表現されている。

〔阿部〕文章が上手い。感受性に溢れている。感想文にエビデンスを要求するのは、それこそ高望みかもしれないが、他作品や作者の言葉の引用などがあると、もっと良なるし、分量も増え、減点されないと思う(3,000字という条件がある場合は、2,700字以上が目安です)。

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